日本航空宇宙局

鑑定士と顔のない依頼人|いかなる贋作の中にも〜を解説・感想

 

 

 

主人公オールドマンが詐欺集団によって秘蔵コレクションを全て盗まれるというお話。

様々なサイトで解説は出ているため、ここでは「いかなる贋作の中にも必ず本物が潜む」という部分に絞って、「ストーリにおける贋作と本物とは何か」を考察していく。これを考える事で、犯人の動機が浮かび上がる。 またハッピーエンドである事も述べていこうと思う。

 

贋作の中に作者の魂が宿ってしまう 

f:id:hitosuma:20171203132243p:plain

贋作(模倣品)は真作(原物)に似てれば似てるほど良いが、贋作家は無意識のうちに自分の筆運びであったり感性を作品に残してしまう。名作を模写した女性贋作家だったが、女性ゆえに署名ができず独自の記号を作品の中に忍び込ませた。作家なりのプライドからこのような事が起こるのだろう。

一流の鑑定士であるオールドマンはこれを見破るのが仕事である。贋作と真作を見分け、作品に正しい評価を下す。

 

贋作だった愛

顔のない依頼人のクレアとオールドマンの大恋愛は本物ではなかった事がわかる。詐欺の首謀者である友人ビリーは「愛でもさえ偽造できる」と言っている。

f:id:hitosuma:20171203135044p:plain

 つまり、この愛は偽装されたもの。愛が芸術作品であるならば、クレアとオールドマンの愛は筋書きのある作られたもの、贋作であったといえる。

 

いかなる偽の愛の中にも必ず本物の愛が潜む

「いかなる贋作の中にも必ず本物が潜む」を偽造され贋作だった愛に当てはめると、偽の愛の中にも本物の愛が潜んでいたことになる。そうは言っても クレアの本物の愛がどこにあったかは、正直わからない。それにそこは物語において関係ないのだ。オールドマンが襲われた場面であったかもしれないし、食事を用意してくれた場面かもしれない。もしくは必死に自分の事を探してくれた事かもしれない。

 

贋作の愛を見破れなかった鑑定士

重要なのは、偽物か本物かに気づかなかった鑑定士オールドマンの不完全さだ。 鑑定士の仕事は、贋作と真作を見分ける事、また作品に正しい評価をつける事。今回の愛という芸術作品において、オールドマンは贋作である事に気づかないだけでなく、潜んでいた本物の愛にも気づかないままであった。もちろん恋愛という分野ではオールドマンは専門ではないが、オールドマンの鑑定はどんな時でも正しくないということは分かる。

 

不完全なオールドマン

f:id:hitosuma:20171203175302p:plain

 オールドマンの不完全さを一番感じていたのは、友人であるビリーだろう。画家であるビリーは自分の才能をオールドマンに一度も認めてもらえなかった。ビリーからすると、オールドマンに鑑定つまり作品に対する評価の力が足りていないと感じている。詐欺の首謀者であるビリーの犯行の動機としては、自分を認めない友人に対する復讐ということが挙げられるが、もう一つにオールドマン自身の未熟さを思い知らせてやりたいというものがあったのだと思う。

f:id:hitosuma:20171203175953p:plain

 コレクションが消え去る場面では、「いかなる贋作の中にも必ず本物が潜む」と繰り返すオートマタが置かれている。これは「お前は何も見抜けてない」というビリーからのメッセージが込められているのではないか。犯行が完了されるまでオールドマンは偽の愛を見抜けなかったのだ。

 

芸術作品の優劣 

芸術作品には優劣が存在するのであろうが、定義がないため優劣をすぐに決定することは難しいものと思われる。特に今回のようにオールドマンがビリーの芸術作品に対して客観的な評価をつけることは無理であろう。優れた芸術作品は大衆を感動させた時にその価値が分かる。それにそうなるまでには長い時間がかかるのだ。

f:id:hitosuma:20171203183235p:plain

 ビリーの作品は抽象的な表現で批判され、鑑定士から認めてもらえない。もしかしたら内なる神秘性を秘めているのかもしれないのに。

 

 すべてを失ったオールドマン

f:id:hitosuma:20171203185754p:plain 

偽の愛に騙されコレクションを失ったオールドマンは、それでもナイト&デイでクレアを待つ。ここには色々な解釈ができる。「いかなる贋作の中にも必ず本物が潜む」というように偽の愛の中に本物の愛を見つけていて、本物を信じてクレアを待っているというのが一番初めに抱いた感想だった。

ただこの記事を書いているうちにもう一つのラストも見えてきた。芸術作品(愛)はそれが贋作(偽の愛)であろうと真作(本物の愛)であろうと、その優劣をつけるには時間がかかるということだ。芸術も愛も結局その評価は人の感情に任せられる。その評価は数学の方程式のようにすぐに解が出ない。真作であろうと贋作であろうと、人を感動させた芸術作品は価値がある(例えば『モナ・リザ』が実はレオナルド・ダ・ヴィンチによる贋作だったとしても、我々は作品の価値を認めるだろう)。それは我々がどう思うかによるもので芸術に評価のモノサシは人の心の中にしかない。同じように愛にもモノサシは心の中にある。ナイト&デイでクレアを待つオールドマンは、ビリーによる復讐にあって芸術や愛への考え方を変えたのではないか(以前の彼は芸術に関して凝り固まった考えがあった)。そしてクレアの愛をモノサシで測るには、クレアに会って彼女の本当の心を知る必要があるのだ(オールドマンの心の中のクレアは自分を愛している姿のままなのだ)。そして鑑定士であり芸術家であるオールドマンは待つしかないという決断に至った。それを気づかせてくれたのは憎くくも親愛なるビリーだったのだが。ある意味ではオールドマンが本物の鑑定士になったとも言える。

 

最後に

感情を理解するのは中々難しいですね。でも、だからこそこの映画は人を惹きつけるのだと思います。正直、ラストの解釈はこじつけが酷くて自分でも納得いっていないのですが、またそれも感情なのです。正解なんてないと思います。映画も芸術作品なのだから、どう思おうと自由です。そう言って自分の感想に自信を持たせておきます。 

※画像は映画『鑑定士と顔のない依頼人』より引用

「アイデアの作り方」 ジェームス・W・ヤング 感想

 

アイデアのつくり方

アイデアのつくり方

 

 

  アイデアは突然生まれるものではなく、既存の要素の組み合わせである。偉大な発明や独創的な発想は、天から降ってくるものではなく、経験や努力の賜物であると筆者は考えている。確かに、新たなものが生まれる時には、「今」あるものが必要となる。例えば、円形のテーブルを発明した人は、「机」と「円形」という概念を知っていたはずだ。新たなものは、過去にあったものの組み合わせから成り立つというのは非常にロジカルだ。つまりアイデアを作るには、多くの事を知っていれば良いということになる。ごく単純である。

 多くの事を知っていれば良いというと、コンピュータ将棋が思い浮かぶ。最新のコンピュータ将棋のアルゴリズムは、全ての指し手を評価して最も良い手を選ぶらしい。将棋では、一局に平均的に約110手を指すのだが、1手における選択肢は80である。80手を110回組み合わせるのだから、一局で駒の動かし方は約80の110乗にもなる。この膨大な数の中から最も良い約110手を選び出す。だからコンピュータが人間に勝ってしまう。勝つためのアイデアは多くの指し手を知っているところから生まれてくる。

 そうすると、人間がコンピュータに勝つ事など不可能なのかもしれない。それは将棋だけでなく何でもだ。人工知能は人間が処理しうる情報の何倍ものを操る。「今」あるものを多く集めることに特化しているのだ。アイデアが既存の要素の組み合わせなら、それは人間よりコンピュータの方が得意としている。

 ただ、組み合わせれば良いということでもない。将棋のように「玉将」を取れば勝ちという単純なものであれば、コンピュータが得意なのかもしれない。でも現実は違う。評価がいるのだ。例えば、私が自動車と鉛筆を組み合わせて、運転しながらノートを取れる自動車を発明したとしても、それは全くの無価値なものである。無用と評価できるからだ。考えてみれば、コンピュータ将棋に価値があるのは評価が単純だからである。玉将を取る手に高い評価を下せば良い。それに対して、この社会にとって何が良いのか評価するのは非常に難問だ。例えばこれはどうだろうか。自動車と雑巾を組み合わせて運転しながら道路を掃除できる自動車。道路が綺麗になるから良いアイデアだとなるかもしれないし、事故の原因になる可能性もあるから悪いアイデアとなるかもしれない。このように評価をするのは難しくコンピュータでは不可能だと思われる。

 そうのような事を言っても結局、評価をするにも多くの事を知っている必要があるから、情報を集めたり様々な事を学ぶのは重要である。そうして、どんなことがあろうとも評価を下すのは人間であるため、正しい評価ができるように成長しなければならない。最終的にはごく普通の話であるが、この普通な事を論理的に説明している「アイデアのつくり方」は大切にしたい一冊である。

「光」三浦しをん 感想

 

光 (集英社文庫)

光 (集英社文庫)

 

     

 3人の視点から話が進んでいく小説。不幸な事が次々と起こるので、続きが気になってサクサクと読めた。

 まずタイトルだが、なぜ「光」だったのだろうか。明るい話ではないため、ポジティブな意味での「光」ではないのだと思う。

『光がすべての暴力を露わにした。』

 ところどころに出てくる「光」は悪い事が起こるような、見つかるような、そんな不吉なものだった。解説の吉田篤弘氏は、「光=神様」と解釈していた。「神様=光は何もかもを平等に照らし出してさらけ出す。」「我々はその光から逃れられない。」小説の中で起こる津波、虐待や浮気は現実で起こらないものではない。不幸は誰にも降りかかるし、向き合わなければならない。不幸から逃げることはできないのだ。物理的にも光はどこまでも侵食してくる。そんな不幸に登場人物はどう向き合うのか。

 輔(たすく)の場合

 輔の不幸は虐待・支配を続ける父親の存在だろう。輔には母親がいなく、父親もいないと同然であるため、愛を享受せずに生きてきた。そんな不幸に対して、輔は信之に助けを求める。自分の存在を認めてくれる人間だ。輔の生きがいは信之に認めてもらうこと、構われることである。欲求段階説でも社会欲求と愛の欲求は、人間の欲求として最初の方にくる。そんな輔は皮肉にも信之に殺されてしまう。ただ輔が殺される時、輔は幸せになったようだ。輔が殺される場面で、そのような表現がなされている。

『何か言おうとしたようでも、笑ったようでもあった。』

『そこにはわずかに、驚きと喜びの色があるようだった。』

輔は愛を求め生き、そして信之に殺されるという最大の愛を受け取って死んだ。なんとも残酷ではあるが、輔はこれで満足だったのだと思う。

 信之(のぶゆき)の場合

 信之の不幸は、かつての恋人の愛する美花が自分の側から離れていること、美花が安心して生きれる状況ではないことだ。それらに向き合うために信之は殺人や騙しを続けることになる。美花のためなら何でもするという信之は輔と同様に愛を求めて生きている。クールな印象の信之だが、愛に狂い冷静さを欠いている場面もある。

『だが、やはり美花も俺を忘れていなかった。俺を呼び、求めている。』

そして信之は美花のために、すべてを片付けたのだが、思い通りにはいかない。美花は自分のことなど求めていなかった。不幸に立ち向かい、愛のために奔走したが、殺人などの罪が残り、妻からの信頼は失った。

 美花(みか)の場合 

 美花の不幸はない。そもそも美花視点で書かれていなかったから、詳しいことは分からないままだ。ただ、美花のマネージャーの発言から何となく推測することができる。

『篠浦の才能は、女優としてのものだけではありません。そのとき自分にとって必要な男性を、うまく動かすことができる。わかります?』

美花にとって津波も山中との淫行も一時的な不幸であって、自分の人生を突き動かすような不幸ではない。立ち向かう不幸など存在しないのだ。美花はあまり感情がなく、社会で何となく生きていければ良いという考えである事が推測できる。信之に対しても誰に対しても愛がなく、自分の社会的な成功が中心にある。

 南海子(なみこ)の場合 

 南海子の不幸は、不安そのものである。失踪した人殺しの夫、思い通りならない娘、近所やママ友との付き合い。すべてに対して不安を抱いている。それに対して南海子は立ち向かう。それなりに頑張っているのに、上手くいかない。そんな南海子だが意外にも冷静な女性であることがわかる。夫が失踪してから数日に間に、夫の愛を信じて帰りを待つのではなく、一通りの事を済ませた後、お金のことやこれからの事を心配し始める。

 

 何が不幸で何が幸せなのか

  それぞれの登場人物を見てきたが、客観的に不幸なのは誰であろうか。私は不幸なのは、若くして死んだ輔と人殺しをした信之だと思う。美花と南海子はどこにでもいる真っ当な人間だとも言える。

 不幸な輔と信之に共通することは、愛に忠実だったこと。これは特に美花と対照的である。輔は信之に愛を求め、信之は美花に愛を求めるが両者とも結末は悲惨なものとなっている。対して美花は最初から愛など信じず、人を利用してのし上がる。また南海子は愛をすぐに捨て、効率よく生きる方にシフトする。そして不幸にはなっていない。

 ただ、美花と南海子は幸せなのか

 美花と南海子は不幸ではないと思うが、だからと言って幸せでもないと思う。それは何も求めない、希望がない生き方であるからだ。輔と信之は客観的に見ると不幸せかもしれないが、美花と南海子よりも幸せに近かったのだと思う。それは一回しかない人生を必死に生きようとした事にそう感じたのだからだと思う。人を利用して女優として成功したり、娘を良い学校に入れてあげるためにいい人を演じるのは、生きていて楽しいのだろうか。それが幸せなのだろうか。

 

どう生きる

 美花から死んで欲しいと言われた信之は、何もなかったように南海子の元へ帰ってくる。その後の信之の人生はどうなるのだろうか。簡単に予想できる。「死んだも同然で生きていく」のだろう。信之は生きる希望だった美花に突き放され、希望も何もなく生きていくのではないか。美花の事を想い、嫉妬したり興奮したり、時には人まで殺してしまうほど生き生きしていた信之はもう見られない。 

 無難な生き方とはよく言ったもので、難が無い生き方をどう思うかである。人を殺すのはもちろんいけない事だけど、難に立ち向かってこその人生だと言えるのかもしれない。難に立ち向かった時に、人の感情は動く。笑ったり怒ったり泣いたり、それが人としての生き方なのかもしれない。死んだ輔を除いて、信之、美花、南海子はこれから無難な人生を送っていきそう。何にも感じず、ただうまく生きていく。それが人生であっていいのか。

 

 「暴力はやってくるのではなく、帰ってくるのだ。」

『息をひそめて、待っている。再び首をもたげ、飲みつくし、すべてを薙ぎ払うときを。それから逃れられるものはだれもいない。』

 光は暴力を露わにして私たちに向かって降ってくる。それにあっさり負けてしまうのか、それとも負けを認めないでいつまでも戦い続けるのか。そこに人生の意味が見えるのかもしれない。

 

 最後に  

 違った視点で解釈してしまった感が否めないですが、まだまだ分からない部分もあるから、もうちょっと読んでみようと思います。三浦しをんさんの小説は初めて読みましたが、アニメにもなった「船を編む」も読んでみたいです。また「光」は映画になるみたいで、楽しみな作品の一つです。